cinecaのおいしい映画
Sep 29, 2022 / CULTURE
“重石となるトリュフ”
映画を題材にお菓子を制作する〈cineca〉の土谷未央による連載。 あなたはこのお菓子を見て、何の映画かわかる? 自分が知っていたはずの映画も、視点や考え方を少し変えるだけで全く違う楽しみ方ができる。それは、とてもアーティスティックで素敵な感性。
Photo_Shinsaku Yasujima
映画史上、もっともおかしくて哀しい二人。『道』のザンパノとジェルソミーナ。 だれもが一度はその名を聞いたことがあるかもしれない男と女だ。
イタリアの海辺の街。旅芸人のザンパノの手伝いをしていた姉が死んだという知らせを受け、彼女の母親は、姉の代わりに妹のジェルソミーナをザンパノに売ってしまう。大好きな海辺を離れ、突然はじまった道化師としてのジェルソミーナの道。粗野なザンパノに芸を教わりながら、客の前で太鼓を叩いては踊り、その日の飯を炊き、ときには女房役もやってのける。ボロ馬車での移動はガタガタガタとみちみちの心地は決してよいものではない。それでも、ザンパノとの仕事や生活に、彼女なりの誇りを持って生きる姿が、まるでろうそくの灯りのように小さくも力強くて、観るものの心を掴む。
ジェルソミーナは、なんでもかんでもザンパノの言うことを聞いて一生懸命やっていた。しかしザンパノは、優しさや感謝を見せることはしない。いつまで経っても乱暴に扱われることで、ジェルソミーナの孤独は浮き彫りになる。残酷な現実に悩まされるうちに、彼女は、自分は何の役にも立たない人間だと思いはじめる。だれにも求められないことにさびしさを感じて、塞ぐような表情も増えていく。そんなときに、背中に羽をつけた綱渡り芸人のイル・マットに出会う。自分のような人間の生きる虚しさについてぼやくと、この世の中にあるものはみんな何かの役に立つようにできているのだと、例えばこの足元に転がる小石も何かの役に立つんだと、彼の言葉がジェルソミーナの道をもう一度照らすのだ。
いつもそばにあるものが、本当は一番大切なものだと気付くことはなかなか難しい。気付いていても、どれだけ大切なのかを言葉にして伝えることはますます難しい。しかし人は、目の前にある想いや関係を言葉でもって実感し、言葉でもって安心する。
ジェルソミーナは歌のような言葉を求め続けたが、ザンパノは吠えることしかできず、二人の道はとうとう別離してしまう。
人生という道に転がっている小さな石ころ。一度は拾ってみたけれど、それが自分にとって役に立つものなのかよくわからずに、ポイッと捨ててしまったザンパノ。人生の半ば、来た道を振り返ってみると、また代わりの小石を拾えばいいくらいに思っていたものが、風に飛ばされてしまいそうな布切れみたいな自分を、社会やこの世界に唯一留めてくれる重石のような存在だったと気付く。蹴っ飛ばしてすっかりほかの石ころに紛れてしまったものだから、同じものを拾い上げることはできない。けれども、あったはずの道の喪失への嘆きに、人の生きる道の何かを教えられた気がして、残された新しい道も、石ころにつまずくことを楽しみに歩いて行けるかもしれないのだ。
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