cinecaのおいしい映画
Feb 28, 2022 / CULTURE
“裸のケーキ”
映画を題材にお菓子を制作する〈cineca〉の土谷未央による連載。 あなたはこのお菓子を見て、何の映画かわかる? 自分が知っていたはずの映画も、視点や考え方を少し変えるだけで全く違う楽しみ方ができる。それは、とてもアーティスティックで素敵な感性。
photo_Nahoko Suzuki
Re-Edit / PERK 2019 July Issue No.32
透ける白の向こうにきつね色が仄見える。じっくりと焼かれた生地の熱が取れた頃合いに、もうひとつ手間をかけられた糖衣を纏ったケーキ。砂糖がすべったあとの艶やかな表情が、少し気取った額にいれて飾られた絵画的な静けさと、簡単には触れられない気品もつくる。焼きっぱなしの生地に見る牧歌的様相は消え、都会的風貌へと生まれ変わったようだ。
「肌」にとらわれた男が描かれる『私が、生きる肌』。彼の妻は、事故で炎に包まれ、変わり果てた自分の姿に絶望して自死した。もしも美しい肌をつくり与えることができていたら、妻を救えたかもしれないという一筋の希望に捉われて、「肌」をつくる研究に没頭しはじめた形成外科医のロベル。研究結果に確信を得た日から、ある人物を実験台にし、亡き妻にそっくりの美女“ベラ”をつくることに着手する。それは、六年の歳月をかけて完成させられた。
ロベルはいつもカメラでベラを監視している。彼の部屋の大きな液晶に映る、ベッドに横たわるベラ。まるで絵画のような美しさが、ゴヤの『裸のマハ』をも想起させる。しっとりとした光を纏う特別に柔らかい肌と、しなやかで華奢な肢体。見ても食べても美味しそうな“女” の姿に、その中身を疑う人はいないだろう。
しかし、物語を追うにつれあかされる、ベラの中身。まさかまさかという気持ちを重ねながら、最大の裏切りにあう。ベラの「肌」は、中身を語ることのない、まったく新しいものへとつくり変えられていたのだった。
ほとんどの場合、外見で中身が判断されるこの世界において、外見と中身の不一致は苦しいことだ。自分ではない肌に覆われ、自身を喪失したようにも見えるベラ。ところが映画の終盤で、彼女が自分自身を失っていないことが語られる。肌の奥に生きていた真実。他者に侵されることのない場所を自分の中につくり、いつか切り開かれるその日まで、大切に守られていたようにも感じられる。
製菓における糖衣がけのような手法には、美味しいものを美しい形のままに保存したいという、人の食への執着が垣間見える。その執着には「食べたい」だけでなく「美しい」への保存願望も含むだろう。「美味しい」を「美しい味」と書くように、美味しいものの形には、美しい表現の共生も見て取れる。装飾的目的と、生地の乾燥や風味の喪失を防ぐ目的も持つ糖衣。柔らかい生地を守りながら、外見を整えるわずか1mmの砂糖の膜は、人間における肌の存在となんだか似ている。
ケーキの糖衣に人間の肌をなぞらえると、それにナイフで切り込むことにはためらいを感じてしまう。しかし、切り開き食べてみないことには、目の前のケーキの本質に迫ることはできない。人間も然り。肌が語ることだけでなく、肌が守る真実へ辿り着くことこそが、人を知る真意であろう。人を知ることと食べる行為とが重なるのであれば、どれだけの人と「食べる」を交わし生きていけるか、それが生きることの性質とも言えるのかもしれない。
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